子ども時代の黒い記憶
rokusyoさん 30代男性
生い立ち
私の母がJWとなったのは、私が六才の時でした。
その日が来るまで母は本当に優しかったです。
私の誕生日には必ず大きなケーキを買ってきて祝ってくれたし、クリスマスには御馳走やプレゼントも用意してくれました。正月には母が調理した重箱入りの御節料理も必ずありました。 子供の日には立派な五月人形が床の間に飾られていて、家の外には鯉のぼりも揚げられていました。地元の神社の祭りには、近所に住む叔父さん家族と仲良く夜店へ行くのも習慣でした。
それら全てが、母がJWと研究を始めてから唐突に終わりました。。。
幸せな日々が唐突に終わりました
当時六歳だった私には何が起きたのか理解不能でしたが、自分の誕生日なのにケーキも「誕生日おめでとう」の言葉もなく、クリスマスも普段通りの食事。
幼稚園で作ったクリスマスカードを母に渡そうとして、拒否されたことも鮮明に覚えています。
あの日以来、我が家には五月人形も鯉のぼりも飾られなくなり、地元神社の祭りも行くことを禁じられました。友達と遊ぶことも禁止され、友達が家に迎えに来ると母は全て追い返しました。遊んで良いのは近所に住む二世の子だけと厳命されたのです。破れば鞭でした。
この頃、それまで仲の良かった父と母が、たびたび口論している姿を目にしました。
父は子供を連れて集会へ行くことを許さず、それでも強引に集会へ行った母と私たち(道連れ)を、父は鍵を掛けて家に入れなかったことも度々ありました。
そのたび、すぐ近所に住んでいた母の研究司会者の自宅へお世話になりました。その研究司会者は「お父さんの心にはサタンがいるの。今は研究を辞めさせようと必死に攻撃しているのよ」とよく言っていました。
幼い私もそれを聞き「父はサタンに影響されているんだ」と本気で信じていました。いま考えても父に申し訳無い気持ちでいっぱいです。
集会と鞭
私が初めてJWの集会へ行ったのは六歳の時、日曜日の集会に母と行ったのが最初でした。
当時の私はバスが大好きだったため、母に「バスに乗ってお出掛けする?」と言われて大喜びで出掛けました。集会では大歓迎されたことを覚えていますが、それ以外の記憶が無いので居眠りしていたんだと思います。
やがて、集会が退屈なものと解った私は、母に「集会へ行きたくない」と言いました。
しかし、母はそれを許さず、それどころか私が行きたくないと言うたびに激しく鞭をしたのです。集会でも居眠りすれば鞭され、ノートをとっていなくても鞭をされました。
そんなことが続くうち、私は集会へ黙って着いていくようになり、行きたくないと言うことも無くなりました。そんなことを言ったら死ぬまで叩かれるという恐怖心があったのです。
今では信じられないかもしれませんが、当時の集会では「JWを辞めたいと言った子供を丸太で打ち懲らし、息子の中に入っていたサタンを追い出すことで立ち直らせた」なんて経験が頻繁に話されていました。
どんな材質の鞭が効果あるのか、どのくらい叩けばよいのか…そんな注解も集会で普通にされていた時代でした。
王国会館のトイレには、誰が置いたか鞭用のゴムホースとエナメルのベルトが常備され、集会中には子供たちを叩く音と、絶叫に似た泣き声がいつも響いていました。
当時の王国会館は二階が普通のアパートだったため、同じ王国会館を使用していた別の会衆では、子供の泣き声を聞いた住民から通報され、何度かパトカーの出動する騒ぎになったようです。それでも大騒ぎにならなかったのは、まだ体罰に対する世間の認識が緩かったからかもしれません。
鞭には順序がありました。
最初に鞭を叩かれる理由を説明され、箴言13:24の「むち棒を控えるものはその子を憎んでいるのであり…」の聖句を読まされます。そして決まって「お母さんは憎くて叩いているんじゃないんだよ」との弁解。
そこでようやく私は「お願いします」と言って尻を出す。鞭が終わったら「ありがとうございました」と礼を言う。ここまでが我が家の鞭ワンセットでした。
この間、一切の呻きも泣き声も発してはいけない。とにかく必死に痛みを耐える。泣いてしまうと「まだサタンが心に残っている」と言われて鞭が追加されるからです。どんなに理不尽な鞭だろうと、決して言い訳したり反論してもいけません。鞭が数倍になって返ってくるからです。親の鞭は絶対でした。
家庭による差はあれ、当時の子供は似たような鞭をされていました。私は特に悪ガキだったので、幼少時代にされた鞭の数は万単位と言っても過言ではありません。 一回の鞭で叩かれる回数は平均十回以上。一回一発で済んだ鞭は私の記憶に無いのです・・・。
七夕の思い出
笹の葉 さらさら
軒端に揺れる
お星様 きらきら
空から 見てる
五色の短冊
私が書いた
お星様 きらきら
金銀砂子
七夕の歌ですが、なぜか今でも普通に歌えます。
歌詞が単純だと言う理由もあるのですが、時期になると音楽の授業でさんざん歌わされましたし、音楽の授業まで証言するのが私も嫌だったんですね。だから七夕集会については参加拒否を証言しましたが、音楽の授業では普通に七夕の歌を歌っていました。
小学校時代の私にとって、七夕の日は憂鬱な一日の始まりでしかありませんでした。
特にJWを嫌っていた教師が担任だった5~6年生の時は、最悪の一言に尽きます。
何故なら学校で自分がどんな扱いをされるか理解していたから。
まず、七夕の日の前日、私は母と共に担任宛の手紙を書くのが常でした。
内容は学校とエホバの証人のブロシュアーから引用し、「七夕は異教の起源だからできない。七夕集会は見学させてほしい」という趣旨の手紙を、極力自分の言葉で書くように努めていました。
七夕の当日、私は担任に証言するため少し早目に登校します。
気分は非常に憂鬱、学校へ行く足取りも重かったです。心の中では母に教わった通り「先生の心を開いて下さい。証言に耳を傾けるようにして下さい」と熱烈に、そして繰り返し呪文のようにエホバへ祈っていました。
学校へ到着すると手紙を持って教務室へ。
しかし、教務室内には他の先生方も大勢おり、私はそこへ入って証言することを躊躇。不審者の如く教務室前の廊下をウロウロし、再び「私に勇気を下さい」と神に祈りながら担任が教務室から出てくるのを待ちます。
運良く担任が出て来たところで「先生、これ読んでください」と前日に書いた手紙を渡すのですが、既に手紙の内容を予想していた教師は「学校行事に出ることは法律で決められた生徒の義務だ。だから欠席は許さん!」と手紙も読まずに冷たい一言。
朝のホームルームが終わり、一時間目の授業が始まったところで担任は「よーし、今日は全員この部分を自習しとけ!rokusyo、ちょっと前に来い!」と言い、クラスの皆が怪訝な顔をしてるなか、私は教室前方に呼び出されます。
静まり返った教室の中、担任は「こんな屁理屈が通用すると思っているのか!」「これは宗教行事じゃなくて学校のイベントだ!」「俺は欠席したら許さないぞ!」と、授業が終わるまで延々と大きな声で私に恫喝を続けます。
もちろん教室内はヒソヒソ、クラスの皆も「また始まった」という顔で見ています。
学校行事のたびに繰り返された光景なので、さすがに6年生の頃にはクラスの皆も見慣れていたと思います。酷い時には午前の授業を全て潰し、自習と私への説教が半日続きました。
私を説教していた時の、担任の冷たく見下すような眼は今でもしっかり覚えています。他の2世の担任は、理解があって二つ返事で承諾してくれるのに、自分の担任は何故こんな奴なのだろうと何度恨んだか知りません。
朝からたっぷり絞られた私は、「欠席は許さん!」と言う担任への恐怖で、結局は七夕集会へ出てしまいます。それは同時に、帰宅後の鞭が確定したことを意味していました。
学校の帰り道、普通なら歩いて20分程度の道のりを、私はだらだら道草しながら2時間近くかけて帰りました。家に帰って鞭されるのが嫌だったからです。帰り道には「私を殺してください」「病気にして下さい」とサタンに祈っていましたし、私の祈りを無視したエホバを呪い続けていました。
現役時代、私が神に親近感を抱けなかった原因はここにあると思います。
家に帰ると「どうだった?」と聞かれますが、私は恐怖で曖昧な答えしか言いません。
しかし、私の態度で七夕集会へ出たことを知った母は烈火の如く怒り、鬼の形相で私を鞭しました。
何発叩かれたかは覚えていませんが、母の気が鎮まるまで叩かれ続けていたことは確かです。
更に私の悲劇は続きます。次の集会で同じ学校へ通う2世の母親Y姉妹から、「rokusyo君が七夕集会へ出たってウチの子から聞いたんですけど本当ですかぁ?」、「そのことでウチの子が担任から『何故rokusyo君は出ているのに、あなたは出来ないの?』と聞かれたんですよ~」と母に皮肉を言われました。それで再び母の怒りに火が付き、集会後に「私に恥をかかせて!」と鞭されました。これが学校イベントのたびに繰り返されました。
いま振り返っても、よくあんな子供時代を送っていて心を壊さなかったなと不思議でなりません。今でこそ思い出話の一つとして振り返れますが、当時の自分にとっては本当に辛くて苦しい日々でした。全ての子が幸せに七夕を祝っていただけでなく、こんな悲惨な七夕の日を送っていた子もいたんだよって知って頂ければ幸いです。
忠誠の試み
学校行事のたびに繰り返された地獄。
何故か私が小学校2~6年生までJW嫌いの男性担任ばかり続いたため、「忠誠の試み」なんて言われていたものは全戦全敗でした。今考えると教頭の意図的な担任人事だったと思います(教頭については後述します)。
私はイベントのたびに担任から恫喝されましたが、他にも大会で学校を欠席するのも許して貰えませんでした。長老から「そんなの無視して休めばいい」と言われ、担任の許可が出ないまま休もうとしたこともありました。しかし、その日は運悪く運動会と重なっていました。
大会当日の朝、大会へ行く準備をしていると学校から自宅に電話があり、「rokusyo!おまえなんで勝手に学校休んでるんだ!俺は休むことなんて許可してないぞ!もし今日学校へ来ないなら俺は許さんぞ!!」と担任から怒鳴られました(脅迫とも言う)。
余談ですが、今の常識から考えればこうした担任の言動は明らかに異常ですし、現在であれば懲戒処分になるような問題行為だと思います。しかし、当時の学校では体罰も普通であり、親より学校側の立場の方が上でした。
話を戻します。
家にまで担任の脅迫電話が来たことに私は恐怖します。ここで私が考えたことは、「大会へ行かなければ母に烈火の如く怒られるが、学校へ行かなければ卒業するまで担任の嫌がらせは続く」という、どちらが自分にとってより辛いか?という比較でした。どちらを選んでも地獄なんですけどね…
結局、私は大会を諦めて学校の運動会へ行くことを選びました。
母の怒りはその日だけ、でも担任とは卒業するまで毎日顔を合わせ続けないといけませんからね…
もちろん母は烈火の如く怒りました。その怒りは凄まじく、先生に脅され泣く泣く学校へ行こうとする私の背中に、「もし大会へ行ってる時にハルマゲドンが来たら滅ぼされるんだよ!」「大会から帰ってきたらたくさん鞭だからね!」とキツイ言葉で送り出してくれました。
この時の私、老婆のように背中は小さく足はヨタヨタ、目が死んで死相の漂う表情をしていたと思います。
とても運動会へ行く小学生の姿とは思えない、悲壮感漂う姿だったでしょうね…。
多くの親が運動会の観戦に来ているなか、もちろん大会へ行った母の姿があろうはずもなく(父は仕事だった)、お昼の弁当もありませんでした。
弁当も無い私が昼の時間をどう過ごしたか・・・今の私には当時の記憶がありません。
もちろんその日は、大会から帰宅した母に尻の感覚がなくなるまで、母が疲れて止めるまで尻を叩かれました。きっと学校を休んだ2世の母親姉妹たちから、集会で嫌味でも言われたんでしょうね。
その鞭に愛なんてものはなく、ただ自分の怒りを鞭として発散していただけだと思います。
私の小学校時代、お尻のミミズ腫れと青アザが絶えることはありませんでした。
母が学校に乗り込んで来る
こうして全戦全敗を繰り返す私に愛想を尽かし、一度だけ母が直談判で学校に乗り込んで来たことがあります。校長室で担任と校長と教頭が対応し、私も呼び出されて母の隣に座って話を聞いていました。
開口一番、教頭が「私はエホバの証人なんて大嫌いです!!」と言い放ったことだけは覚えています。
それ以外の詳しい話の内容は覚えていませんが、とにかく母と教頭と担任が激しい舌戦を繰り広げ、話し合いは最後まで平行線のままでした。
あと、帰宅した母が「あの教師は駄目だ!なにも解ってない!相当サタンに影響されている」と悪態をついていたことは覚えています。
それを見ていて「母でさえ無理なのに、自分が証言したところで成功する訳ないじゃん…」と思ったものです。それよりも、母が学校にまで来て教師とバトルしたことで、私に対する担任の扱いは更に酷いものとなりました。
例えば授業で手を挙げても無視されるなんて日常茶飯事、怒られて体罰を受けるときは「聖書に左の頬を出す者は右の頬も出せって書いてあるよな!」と言われ、私だけ倍の数を叩かれました。往復ビンタもされましたよ。まぁ、ほんと教師にあるまじき最低な担任でした。
こんな小学校時代だったので、卒業式の時には「やっとあの担任から解放される」という嬉しさから涙を流しました。小学生なのに自死すら考えるほど追い詰められていましたから、それはそれは嬉しかったです。
他の級友が卒業式で流した涙とは明らかに意味が違う涙でした。卒業式で涙を流したのは、専門学校まで含めてもこの時だけです。
・・・以上、子供時代の思い出を一部書き出してみました。
JW2世と呼ばれた子供がどのように育ったか、どれほど辛い子供時代を強要されていたか、少しでも多くの方に知って頂ければ幸いです。そして、二度と私のような子供がJW内から出ないことを望みます。
(2017年7月にrokusyoさんはご自身のブログにてより詳細な回顧録を書かれました。http://ameblo.jp/kuma-echigo/entry-12293722997.html 2017年7月真彩追記)
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