川島真彩の幸せの部屋

「幸せは全て自分の心から生まれる」 ~元JW(エホバの証人)2世からのメッセージ

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文化庁への報告書

5.私の虐待経験について

(1) 母と父の狭間で

私が5歳くらいのとき、集会や伝道活動に行くのは父がとても反対していて、「行くなら一人で行け。●●を連れていくな」と大声で母に何度か怒鳴っていたのを覚えています。母の宗教活動のことで、よく夫婦の口論になっていました。母は怒鳴られるとその場では強く抵抗はしませんでしたが、父に隠れて私を集会や伝道活動へ連れて行きました。父にばれて母が怒られていたこともありますが、父がいないときを見計らって続けました。

父は仕事が忙しく、月曜から土曜まで働いていました。帰るのは夜8時~11時頃だったと思います。私は集会には行きたくなかったのですが、母の事が好きだったのと、母を怒鳴る父に対しても恐怖心があり、また、母が可哀想だなと思っていました。時折口論が激しくなると、父は暴れて家の中のものを投げたりしました。両親が喧嘩になるのがとても嫌だったので、母には逆らわないようにしていました。

そんな私は自分から、「自分が行きたいんだ」と父に言ったこともあります。私が小学校に入る前の6歳の頃のことです。そうすると父は気まずそうに怒鳴るのをやめ、喧嘩は収まりました。私が集会に行くと母は私に対して優しくなり、行かないとあからさまに不機嫌に冷たい態度を取ったり悲しい顔をしたりしました。私は母に愛されるために集会に行かなくてはいけないと、幼心に強く感じていました。父は次第にあきらめて反対するのをやめていきました。その後、私はほぼ毎回、母に連れられて集会や伝道に行くようになりました。

(2) 私は幼稚園に行かせてもらっていませんでした

私は幼稚園に行かせてもらっていませんでした。当時は幼稚園の存在もよく分かっていなかったので、「行かせてもらっていない」とは思っていませんでした。

昼間は母に伝道活動に連れていかれたり、教会の出版物を読まされたりしていました。それ以外は、家にある絵本や本を読んだり、テレビを見たり、近所の児童遊園や空き地で一人で虫を探したりして遊んでいました。母が字を教えてくれたこともあります。

しかし、小学校に入ると友達がみんな幼稚園や保育園の話をしていて、私は会話に全く入れませんでした。家に帰ってから、なぜ幼稚園に行かせてもらえなかったのかと、母に聞きました。母は「幼稚園に行きたいか●●(私のこと)に聞いたら行きたくないと言ったでしょ」と答えました。父にもそう説明していたようです。行きたくないと私が言ったのかは覚えていませんが、少なくとも、3歳か4歳の時点では幼稚園がどういうところなのか知らなかったのは事実です。

(3) 先生への証言

私が●●県●●市立●●小学校に入学してから間もない1年生のとき、集会が終わって帰る途中、●●にある集会場の駐輪場で、母に、「私の聖書物語の本」という教会の出版物である黄色い本の話をされ、「明日この本を使って、私たちが信じている神様のことを学校の先生に証言してね」と言われました。その日の集会では、「滅びの日が近いから、信者でない人たちに教えを伝えよう」、というのがテーマになっていました。

私はとても嫌でしたが、母に怒られて叩かれること、そして、逆らうと神様に滅ぼされるという恐怖があり、逆らえませんでした。この頃には母からの暴力が始まっており、母に逆らうと懲らしめとして何度も道具で尻を叩かれていました。エホバの証人では神がこの世界を滅ぼすことを「ハルマゲドン」と呼んでおり、この頃(今でもそうですが)「ハルマゲドンが近い」ということが集会でしきりに言われており、出版物にも書いてあり、信者の中にはもう数年も持たない、という人もいました。出版物には、ハルマゲドンの描写として、天から火の玉が降ってきて、快楽にふけっていた人々が逃げまどい、血を流して倒れている怖ろしい絵が描かれていました。母も私に対して日常的に、「エホバの言うことを聞かないとハルマゲドンで滅ぼされるよ」と言っていました。私は幼心に強い恐怖を感じ、母に対しても、教団の教えに対しても逆らうことができなくなっていました。

私は翌日その教団の本を持って学校に行き、職員室の先生(●●先生という優しい先生でした)のところまで行きましたが、他の子供がやっていないことをやることがやはり嫌で何度も躊躇していました。先生に「どうしたの?」と言われましたが、「何でもありません」と答えて職員室を後にしました。先生は私が何をしようとしていたか気づいていたと思います。

エホバの証人は禁止事項が多く、たとえば校歌を歌うことも禁止されていました。「校歌を歌うとエホバが悲しむから歌わないでね」とあらかじめ母に強く言われていました。入学して間もない頃に校歌を歌ってしまったことがあり、そのことを母に聞かれて言うと、母がとても厳しい表情で私のことを睨んだのを覚えています。「エホバはいつでも見ているからね。もしエホバが悲しむことをしたらどうなるか分かるよね」とも言われました。私は母の言いつけに従って校歌を歌わないようにしていましたが、歌っていないことで先生たちや同級生に咎められないように口を少しだけ動かしていました。言いつけに逆らって歌ったら本当に滅ばされると言われていたし、信じ込まされてもいました。

誕生日やクリスマスを祝うことも禁止されていました。私が唯一覚えているクリスマスプレゼントは4歳頃に父が買ってくれた車のおもちゃです。ブルドーザーのような形で、うれしくて庭で遊んだのを覚えています。そのあとの人生で、誕生日プレゼントもクリスマスプレゼントも、家族からもらったことはありません。学校の勉強は得意で、試験結果も良い点数でしたが、宗教活動以外のことで母から褒められることはありませんでした。

学校外で遊べないことや校歌を歌わないこと、伝道活動をしていることなど、他の同級生と違うことが多かったため、同級生の一部からはいじめに遭っていました。「変な宗教に入っている」とか「昨日なんでネクタイしてたの」とからかわれたり、汚物を学校の帽子や靴に入れられたり、物を隠されたり、机に落書きをされたりしました。悲しくて、苦しくて、学校に行きたくなく、死ねればきっと楽だろう、と思っていました。自分でも変なことをしていて恥ずかしいという自覚があり、抵抗できませんでした。

(4) エホバの証人の禁止事項に対して違和感を覚えるようになっていました

私は少しずつ、エホバの証人の禁止事項に対して違和感を覚えるようになっていました。友達と遊べないことや、他の友達がやっていないのに自分だけ集会や伝道活動に行かされることが嫌でした。伝道活動は自宅の近所を回るので、知人や同級生に会うことも多く、私はだれかとすれ違うと目を伏せたり顔を覆ったりして自分であることが他の人に分からないようにしていました。私には教義のことはよく分かりませんでしたが、学校の友達や先生が、教団が言うように「悪魔に支配されている」ようには見えず、また、「この宗教を信じない、もしくは知らないだけで大勢の人を殺してしまう神様って本当に愛があるのかな」と不思議に思っていました。

私が小学校2年生のある日、集会に行きたがらなかった私に母が逆上し、無理やり行かせるために体を引きずられました。それでも抵抗していると、母は「言うことを聞かないから●●(男性器のこと)を切る」と言い、無理やりズボンと下着を脱がされました。抵抗し、泣きながらやめてくれと言いながら逃げようとしましたが、台所に連れていかれ、台所の引き出しから料理に使うはさみを取り出して性器に押し当てられました。母は本気で切り取ろうとしているように見えました。何とか必死に抵抗して逃げたので性器は無事でしたが、恐怖から、集会には行きました。今でもこのときの記憶は鮮明で、夢に出てくることもあります。2年生頃から不眠が始まり、なかなか寝付けないようになりました。

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このサイトについて

元エホバの証人(JW)2世です。2000年に脱会することができました。
現在は保育関係の仕事をしながら、病気も経験しつつも心穏やかな日々を送っています。
どんな過去があっても人は幸せになれる、ということを伝えていきたい、そして子どもたちの人権を踏みにじる行為を防ぐ力となりたいと思っています。
当サイトが、ものみの塔からの脱会と脱会後の助けになりましたら幸いです。

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