文化庁への報告書
(5) 友達と学校外で遊んだことで母にベルトで尻を叩かれる
小学校3年生のある日、学校で仲良くなったクラスメイトに、学校が終わったら児童遊園で一緒に卓球をしよう、と誘われました。友達と学校外で遊ぶことは悪魔の影響を受けるので避けるようにと教団が教えており、母にも禁止されていましたので、いつも断っていました。私自身は本当は遊びたくてたまりませんでした。友達と遊べないのは宗教的な理由で母にきつく禁止されているのが理由でしたが、それは友達には恥ずかしくてどうしても言いたくなかったので、親戚が来るとか、髪を切りに行くとか、嘘をつかなくてはなりませんでした。
しかし、この日はどうしても遊びたかったのを覚えています。クラスメイトに遊ぶ、と約束をし、どうやって母の目を盗んで遊びに行こうか悩んでいました。家に帰ったあと、母がリビングにいるときに、玄関から出ると見つかるため、サンダルだけ取って、部屋から音を立てないように雨戸と窓を5分くらいかけて慎重に開け、外へ出ました。悪いことをしている、後で叩かれるかもしれない、と思い、恐怖で心臓がドキドキして、汗が出てきて、鼓動が聞こえました。玄関側を通ると母に見つかるため、反対側の隣の家との境にあるブロック塀(幅15cm程だったと思います)の上を伝って外に出て、それから児童遊園に行って友達と遊びました。
少しの時間だけ遊んですぐに帰ろう、と思っていましたが、楽しくて夢中になって遊んでしまいました。一瞬、卓球の部屋の入り口から鋭い視線を感じました。そちらを見ると、母が目を腫らしながらこちらをすごい形相で睨んでいました。なぜ居場所が分かったのか、恐怖で頭が真っ白になりました。「遊んでごめんなさい」と何度も謝りましたが、母は黙ったまま、そのあと無言で自宅に帰り、家に着いてから、「どうしないといけないか分かるよね」と言われました。1階にある畳の部屋でした。私は自ら下着を脱いで部屋の壁に手をつき、ひざをついて、母にベルトで尻を何度か叩かれました。痛くて、怖くて、やはり自分は友達と遊ぶことは許されないのだと思いました。しばらく叩いた後に母は穏やかな顔になり、「次はあんなことしちゃだめだよ」と言いました。
(6) 伝道活動を嫌がった罰
小学校3年生の頃でしたが、伝道活動に行くのがどうしても嫌で、その時間になるときに母に見つからなければいいと本気で考え、2階の押し入れの中の布団の奥に身を隠しました。その押し入れは床から100cmくらいの高さにあり、私は近くにあった椅子を使って登って入りました。
1階から母が私の名前を呼びながら探しているのが分かりました。母が階段を上がってくるのが分かると私は恐怖でしたが、必死に息を止め、音も立てないようにしました。母が私のことを忘れて自分一人で伝道活動に行ってくれれば良いと思っていました。今考えてみれば逃げるのなら外に行けばよかったのかもしれません。当時は家の中で隠れるだけでも相当な勇気が必要でした。夏で、冬用の布団の中にくるまれていたのでとても暑く、大量の汗で布団も濡れていました。
しかし見つかり、布団の中から引きずり出されました。私は「奉仕(伝道活動のこと)に行きたくない」と言ったところ、母は伝道活動を嫌がった罰として2階の押し入れのある部屋で尻を何度も叩きました。そして「早くワイシャツに着替えて伝道活動に行くよ」と言われ、その日も連れて行かれました。このように、母は私が伝道活動を嫌がっていることを分かっていながら、強制を続けました。5度ほど同じようなことがあり、逃げても意味がないことを悟り、私はあきらめて抵抗するのをやめるようになりました。
ここで、私が受けていた身体的虐待について説明させてください。私が5歳の頃に始まり、9歳頃まで、宗教活動への参加を嫌がった、もしくは教団の教えに反することを行った、という理由で私は母に叩かれました。前述のように学校の友達と遊んだ時も罰として叩かれました。叩かれるときは決まって父がいない時間で、父がいる前で叩かれたことはありません。母は私を叩いていることを父に言っていなかったか、言っていたとしても、宗教活動への参加を嫌がったことが理由だとは言っていなかったと思います。場所は家の中か集会場でした。家の中では、1階にある畳の部屋か、風呂の洗い場か浴槽の中でした。集会場ではトイレでした。私が4歳頃には2人の姉が叩かれているのも見たことがありますが、姉はあまり宗教活動への反抗をしなくなるにつれ、ほとんど叩かれていませんでした。私が叩かれるときは、姉がいないとき、もしくは、姉がいても姉には見せないようにしていました。
叩かれるときの段取りは決まっていました。最初に叩かれる回数(5回とか10回とか)を言われました。母のその時の気分で、回数を自分で決めていいよと言われることもありましたが、少ない回数(2回とか3回とか)を言うとだめと言われました。素直に自分からズボンと下着を脱いで両手を壁について尻をつき出して下を向かないといけませんでした。恥ずかしさ、悔しさ、悲しさでいっぱいでしたが、叩かれても悲鳴をあげたりよけたりしてはいけませんでした。抵抗したり、逃げたりしたこともありますが、そうすると食事を与えなかったり、家から追い出されたり、あるいは叩かれる回数がその分増やされましたので、抵抗できなくなっていきました。叩かれるときに少しでもよけても罰として叩く回数を増やされましたので、必死に痛みを堪えながら、よけないようにしていました。私が痛んでいる姿を見ながら、母は「私が叩きたいんじゃないの。エホバのために叩いているの。エホバからの懲らしめなのよ」と言って叩き続けました。目に涙を浮かべながら叩いていたこともありますので、母は葛藤していたのだと思いますが、教団の教えを守ることを最優先して私を叩き続けました。多いときで一度に50回叩かれたこともあります。平均的には一度あたり10回くらいだったと思います。
私が教えに疑問を感じ始めた6~8歳の頃が、宗教活動を強制するために一番よく叩かれました。ほぼ毎日叩かれていました。叩く強さは一度だけでもよけたくなるほどの激痛で、叩かれたあとは必ずみみず腫になり、その部位に触れたり椅子に座るだけでも痛みがありました。叩く体の部位は必ず尻で、それ以外は叩かれた記憶はありません。場所は家の風呂場、一階の畳の部屋、集会場のトイレが多かったです。道具は決まっていて、靴べら、縄跳び(ビニール製、縄の部分)、革のベルト、風呂のホース(青色のもの)のどれかでした。手で叩かれることはなかったと思います。「エホバの証人の信者たちにとって、手を使わずに道具で叩くことは愛情の表れなのよ」と、2019年4月に私がこの問題を話したときに母は私に明言しました。
エホバの証人は子供に対する「懲らしめ」を奨励しており、信者たちはそれを子供を道具で叩くことと解釈していました。出版物には少なくとも「子供に懲らしめを与えなさい」ということが繰り返し書かれていました。集会場でも私が5歳から6歳くらいまで、何度か叩かれました。集会中に眠くなると、手のひらをつねられたり、トイレに連れて行かれて叩かれたりしました。他の幼い子どもたちも叩かれており、集会中に、時々トイレから他の子供が叩かれる音と痛みで泣き叫ぶ声が聞こえていました。集会場で私や他の子どもが叩かれるときの理由は、集会中に眠くなってしまったり、集中できなかったり、足が苦しくなって姿勢を崩してしまったりしたときでした。まだ集中力のない3歳くらいの子供も眠くなったとかの理由で叩かれていました。集会場のトイレの入り口にはなぜか靴べらが壁にかけてあり、それを使って叩かれることがありました。トイレには3つくらい個室があり、その中で叩かれていたり、洗面台の近くで尻をむき出しにして叩かれている子供を見たこともあります。
話が逸れますが、私は小学校3年生から4年生頃、2番目の姉からも身体的暴力を受けていました。姉はきょうだい喧嘩と呼んでいましたが、私は小学生当時クラスで一番身長が低いほど小柄で、身長が高かった姉との身体的な差は歴然で、私が姉を傷つけることはなく、いつも一方的にやられていました。小学校4年生の時には、姉が私の腰のあたりを思い切り蹴り、私は尾てい骨を骨折し、全治2か月の傷を負いました。完治するまで●●市内にある●●という病院に通院しました。その頃は母の暴力の頻度は少なくなっており、私は、母に対して、姉の私への暴力をやめさせるように泣きながら頼みましたが、母は姉の暴行を直接止めることはなく、暴行後に姉に「あんまりやり過ぎないようにね」と言うにとどまりました。私は目の前にいる母親が自分を助けてくれないことに深い悲しみと絶望を感じました。姉も幼い頃に母から暴力を受けており、家庭内で暴力を振るうことに対して抵抗がなかったように思います。姉は姉自身が母から受けた暴力を、愛情のある懲らしめだったと言っています。姉は現在もエホバの証人の信者で、同じく信者である男性と結婚して熱心に活動しています。
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