川島真彩の幸せの部屋

「幸せは全て自分の心から生まれる」 ~元JW(エホバの証人)2世からのメッセージ

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文化庁への報告書

6.中学生以降の葛藤、無理心中未遂など

(1)無理心中未遂

集会や伝道活動に参加するのはずっと嫌でしたが、父を除く家族の中で宗教活動に否定的なのは私ひとりであり、また、教団外の人との接触は限定されていたため、私は自分の考えが間違っているのだと思っていました。しかし、学校で会う同級生や、●●に住む私のいとこといった教団外の人と話すことで、私は自分の考えが必ずしもおかしくはないのではないか、と思うようになっていきました。特に●●に住むいとこ2人は私と親しくしてくれており、私の心境の変化に大きな影響がありました。彼らは信者ではありませんでしたが、親族であることで、母は私に対して接触を禁止できず、例外的に遊ぶことを許されていました。●●に住んでいるので年に2度ほどしか会えませんでしたが、会うと家では禁止されているテレビゲームをしたり、普通に遊ぶことができました。私にとっては、教団外の世界との数少ない接点でした。いとこの母である伯母(私の母の姉)は2006年3月に、実は母の宗教活動に反対していたのだと私に打ち明けてくれました。

私は小学校6年生頃から、宗教活動に参加したくないという自分の気持ちが論理的に説明できるものであると感じるようになりました。つまり、宗教活動に参加したくないということが、私の気持ちの問題ではなく、このような宗教活動の強制自体が間違っているのではないかと、思うようになりました。母はこの頃には私に対して身体的暴力を使って宗教活動を強制することはしなくなっており、ハルマゲドンへの恐怖心を煽ることも少なくなりました。「●●(私の名前)が宗教活動に参加しなければ私が悲しい」と言って同情を誘ったりするような、間接的な誘導に変わってきていました。私の心の中で長い葛藤がありましたが、ようやく中学校1年生のときに、●●県●●市●●町の自宅で、私は母に対して、伝道活動や集会にもう行きたくない、と伝えました。私は地元の公立中学である●●県●●市立●●中学校に進んでいました。同じ頃に私たち一家は同じ町内の新築の家に転居していました。

私が集会や伝道活動に行きたくないと言った後、しばらく母が思い詰めていました。私の前で急に泣き出すことが何度もありました。「●●(私の名前)を正しい方向に導けなくて、エホバ神に対して申し訳がない」と、よく言っていました。私はこの頃には、母が間違っていると思うようになっており、母と口を利きたくなくなっていました。ただ、母と時々ドライブには行っていました。前年に中古車(トヨタのカムリ、●●ナンバー)を親族から譲り受け、私たち一家にとっては初めての自家用車で、私は車に乗るのがとても好きだったので、運転するのは母でしたが、ドライブに行くのは好きでした。

ある日の夕飯を食べたあとに、母からドライブに誘われて、母が運転する車で幕張までドライブをしました。私は後部座席の右側に座っており、母の顔がバックミラー越しに見えました。母は最初おかしな様子はなく、私と冷静に話したい、と言っていました。母は私に、教団から離れないでほしいと繰り返し言っており、私は、母にあきらめてもらうためにも、きちんと話さないといけない、とは思っていましたが言葉が見つからず無言でした。しかしドライブの後半から、私が宗教活動に参加しないと言ったことに関する話題になると、「本当に行かないの?」「お願いだからお母さんのために行って」とか「あなたが神様に滅ぼされることになるんだよ」と母が言い、母が本気で教団の教えが正しいと信じているために、母が苦しいのは分かっていましたが、私はそれでも「行かない」と静かに答えました。

私がそう答えると、母は目を腫らしながら感情的になっていき、どんどん運転が荒くなっていきました。何もないところで急ハンドルを切ったり、車のスピードもあげていき一般道でしたが時速80キロを超えていました。母は普段そのようなスピードで一般道を走ったことはありませんでした。「危ないよ。どうしたの」と私が言うと、「あなたが集会に行かなくなって神様に殺されるくらいなら今一緒に死んだほうがいい」と母は言いました。母は思いつめた表情で、乱暴な運転を続けました。●●にあるコンビニの前の電柱にぶつかりそうにもなりました。私は、母が本気で私を道連れに死のうとしている、と思いました。私はドアを自分で開け、走っている車から飛び降りようともしましたが、スピードが速くてできませんでした。私は「お願いだから車を停めて」「車から降ろして」と何度も言い、「分かったから、集会に行くから」とも言いました。母は、元テニスコートだった自宅近くの広い民間駐車場の中でようやく車を停め、私は車のドアを開けて逃げ出し、徒歩で家に帰りました。当時の駐車場は今は大きなマンションになっています。母が車を暴走させたのは、●●駅近くの踏切を通りすぎたあたりから、国道●●号線を通って、●●を通って、その駐車場までで時間にして10分ほどでした。

そのあと数日して、母はあきらめたようで、「あなたの好きにしなさい」と言いました。ただし、条件として、集会に行かないことを●●会衆の長老(●●さんという男性、故人)にも説明するように求め、私は同意し、ある土曜日に●●さんが家に来ました。彼は世間話を一通りしたあとで、集会に行くつもりがないのか、改めて私に問い、私ははっきりと集会に行かないことを伝え、認められたようでした。集会に行かないことを長老と話すということで私は緊張していましたが、全部で30分くらいの比較的穏やかな会話でした。私は正式な信者にはなっていませんでした。信者になる前の段階である、神権宣教学校というものに小学校2年生頃から入っていたそうで、そこから抜けるための手続きだったようです。信者になった後に脱会する場合は、家族とも断絶させられるなど、比べ物にならないくらい厳しい扱いとなります。

(2) 中学2年生

集会に行かなくなってから、少しずつ、私はエホバの証人のことを客観的に調べるようになりました。集会や伝道活動に行くことはしなくなっても、幼い頃に植え付けられた教団の教えを直ちに否定することはできず、自分は神に逆らったので滅ぼされるのではないかという不安が常にありました。教団について調べることは背教者(教えに背いた者で、ハルマゲドンで滅ぼされるとされている人たち)の声を聞くこととされ、禁じられていましたので、私も罪悪感や恐怖がありました。徐々にですが、自宅にあった協会の過去の出版物を調べたり、図書館で宗教に関する本を読んだりしました。

私はエホバの証人以外の教義を学んだことがなかったのですが、他の宗教も自分たちを「唯一の宗教」だと言っていることや、エホバの証人が1914年にもハルマゲドンが来ると言っていてその予言が外れていたこと、神が作ったと言っている教団の指導組織が実際には権力争いを繰り返している統治体という人間の組織であること、輸血を禁止するために輸血が危険だと主張する専門家の言葉を引用したりしているが、実際には引用の仕方がおかしく専門家の意見を曲解していること、輸血が原因で亡くなるリスクよりも、輸血せずに亡くなるリスクのほうが高いこと、などを知りました。調べれば調べるほど、自分が唯一の真実と教えられていたことが、もしかしたら嘘ではないか、と思うようになりました。

私はこれまでに多くの時間を宗教活動に捧げており、同級生や友人とも人間関係を築けないなどの制約を受けており、母に対して恨みの感情を持つようになりました。同じ頃、母が私の同級生の母親を宗教に勧誘していることが分かりました。朝学校に行くと、その同級生の周りに5人くらい集まっていて、私のことを見てヒソヒソと話していました。同級生の手には、教団の出版物がありました。私は逃げ出したい気持ちでしたが、同級生に、「これ、●●くんのお母さんがうちの母に渡してきたんだよ」と言われました。自宅に帰ってから母に聞くと、やはり母が渡したものでした。私は同級生の家族を勧誘するのはやめてくれ、と言いました。私は、この母が生きている限り、自分の人生はきっと滅茶苦茶だと、自分がいくら努力しても無駄だと悲観しました。[母との間で起こった事件が凄惨なため省略]

(3)父の他界

私が●●県立●●高校に入学した19●●年、4月頃に父に胃がんが見つかり、治療を開始しました。父は闘病期の半分ほどを自宅で過ごしており、私も学校から帰ってきてから、やせ細り寝返りを打てなくなった父の体を何時間もさすったりしました。母は献身的に看病していましたが、1番目の姉は教団に入らなかった父に対して嫌悪感が強かったようで、病気で寝ている父の部屋の扉を毎回わざと力強く大きな音を立てて閉めるなど、父に対してあからさまな嫌がらせをしていました。母の信じる宗教について父親がどう思っていたか、とか、自分がどう思っていたか、について父と話せばよかったと後悔していますが、この時は話すことはできませんでした。父に対しては、自分が積極的に助けを求めなかったからなのですが、母から暴力を受けて苦しい時に救ってもらえなかった、という複雑な思いがありました。父は同年12月31日に他界しました。

(4)自殺願望

高校2年生になってから不眠がひどくなり、もとからあった自殺願望が自傷行為などに現れるようになったため、●●県●●市●●にある心療内科(●●クリニック)に通うようになりました。医師の名前は憶えていませんが、40代後半くらいの女性の方でした。

母に対しては、私がうつであり自殺願望があるのは幼い頃に虐待されたことに原因があるということを伝えていました。母はこの頃には私に対して負い目を感じていたようで、泣きながら謝ったりすることもありましたが、謝罪は限定的なものでした。教団の教えは間違っていないが、母自身の教え方が悪かったということは何度か言っていましたが、叩いたことは悪くなく、叩くときになぜ叩くのかをもっと説明すればよかった、と言っていました。私は叩くこと自体が間違っているのではないか、と指摘しましたが、母は決して認めないので平行線でした。

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このサイトについて

元エホバの証人(JW)2世です。2000年に脱会することができました。
現在は保育関係の仕事をしながら、病気も経験しつつも心穏やかな日々を送っています。
どんな過去があっても人は幸せになれる、ということを伝えていきたい、そして子どもたちの人権を踏みにじる行為を防ぐ力となりたいと思っています。
当サイトが、ものみの塔からの脱会と脱会後の助けになりましたら幸いです。

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