文化庁への報告書
SAKURAさん(あとむさん)
母親と姉がエホバの証人の信者であるSAKURAさんは、幼い頃に宗教活動を強制され母親からエホバの証人の教義に基づいた体罰を受けていた過去に苦しめられ続けた結果、弁護士と相談し文化庁と教団に対して、もうこれ以上子供たちを傷つけないでほしいとの改善の申し入れを行うという行動を起こされました。
以下の「報告書」は、虐待の事実を文化庁に報告した文書で、SAKURAさんから本サイトへの公開を託されました。SAKURAさんが幼少期からどのような体験をされたかが痛いほど伝わってきます。(実際の報告書にWebサイトで読みやすいよう見出し、段落等の修正を行っております。)
なお、SAKURAさんは、「エホバの証人2世問題を考える会」を『あとむ(仮名)』さんとして主催されています。会についてはエホバの証人2世の問題を考える会(第一回)が開催されますを参照ください。
報告書
報告書
2019年●●月●●日
私●●●●は、エホバの証人の信者である母●●●●から、エホバの証人としての行動を嫌がる私に対して繰り返し身体的および精神的虐待を受けました。
その事実を、私の記憶する限り、できる限り正確に、ここに報告致します。
1.家族構成
私は19●●年●●月●●日に生まれました。生まれたのは母の実家近くの●●県●●市で、1歳頃からは●●県●●市内で育ちました。東京都●●区の●●に勤務する父(1998年12月に56歳で病気で他界)と、専業主婦の母と、2歳ずつ年上の姉2人がいました。父と母は勤務先の●●で出会い、母は結婚を機に退職して専業主婦になっていました。
2.母のエホバの証人との出会い
母から聞いた話ですが、私が生まれる前後頃、母は●●さんという信者の女性に戸別訪問を受け、誘われてエホバの証人の教えを学び始め、次第にエホバの証人の集会に通うようになったようです。当時、子育てや夫婦生活に疲れ、悩みを持っていたようで、また、昔から人生について深く考えることが多く聖書を学びたいと思っていたこと、「どうしたら良い母に、良い妻になれるのか」の答えを示してくれたのがエホバの証人だったと、後に私に語っています。
3.エホバの証人について
エホバの証人についてご説明しますと、1870年代にアメリカで設立されたキリスト教系の新興宗教です。正式名称は「ものみの塔聖書冊子協会」といいます。世界中に支部があり、つい最近では、グアテマラで伝道活動をしていた日本人の若い女性信者が現地で殺害された事件がありました。
日本でも一般的に知られているところでは、終末論を唱える、伝道活動を行う、教団の外の世界を悪とみなして社会と断絶する(伝道活動や勧誘目的の行為を除いて、教団外の人間との交流は最低限にさせる)、輸血を拒否する、格闘技に参加しない(学校授業の剣道や柔道も禁止)、文化的行事(クリスマスや地域の祭り含む)や選挙に参加しない、校歌国歌の斉唱を拒否する、誕生日を祝わない、といった生活を信者に強いるという問題があります。しかし、それらの行為を信者の子供に対して直接的間接的に強制していることについては、あまり認知されていないのではないかと思います。後述しますが、実際に私も暴力的にこの教団の信者として宗教活動を強制されていました。
また、世界各地で主に子供に対する性的虐待や被害の隠蔽を理由として訴えを起こされています。2015年にオーストラリア政府が調査して判明した、児童に対する性的虐待者が1006人もいたことを把握しながら、1件も警察や行政機関に報告しておらず、被害児童に対しても口止めをするなどの隠蔽工作を行っていた事件もあります 。オーストラリア全体の信者数は当時約6万7千人です。また、アメリカでキャンディス・コンティ氏が告発した、教団内部での性的虐待事件では教団は数十億円の賠償金を命じられていますが、教団が加害者が性犯罪者であることを把握しながらも、意図的にその事実を公表せず、措置を講じなかったことで多数の被害者を生んだという事実もありました。ロシアでは2017年に最高裁により過激活動対策法の対象団体と認定され、正式に活動を禁止されています。
エホバの証人は「自分たちは神に導かれた唯一の組織である」と主張し、また、教団外は悪と虚偽の情報に満ちているとしており、メディアの情報も虚偽であるとして耳を傾けないように信者に指示しているため、このような事件が起こっても内部の信者たちはそれらのニュースを信じようとしないのです。実際に私も、私が14歳の頃から、エホバの証人に関連して起きているニュースを母に伝えてきましたが、「この世は悪魔に支配されていて、メディアもその影響を受けているのでメディアが事実を報道しているとは限らない」、「人間は不完全だから間違うこともある」、「良いところもあるから悪いニュースを見る必要はない」と言われ、耳を閉ざされてきました。
4.宗教活動について
私が物心のついた3歳から4歳くらいのときには、母はエホバの証人の宗教活動に熱心になっていました。私たちが住んでいた地域は、エホバの証人の区域分けによると、●●県●●市●●会衆(地区単位のこと)が担当する地区となっていました。●●、●●、●●、などの地域が含まれていました。毎週、火曜の夜19時、金曜の夜19時、日曜の朝、にそれぞれ2時間ほど集会と呼ばれる信者たちの集まりがあるのですが、母は父の反対を受けながらも徐々に参加を増やしていき、私が7歳になった頃には毎回必ず参加していました。
火曜の集会は、自宅から徒歩10分くらいの別の信者の家に10名くらいが集まる小さな集まりでした。金曜と日曜の集会は千葉県●●にあった王国会館という教団施設に信者など80人くらい(信者以外に研究生と呼ばれる勉強中の人も含む)が集まっていました。金曜と日曜の集会では毎回参加者数が発表され壁に貼り出されていたので人数を覚えています。集会では賛美歌を歌ったり、祈ったり、司会者や講演者(男性のみ)が教団の出版物を使って教えについて講釈したり、注解といって聴衆が教団の出版物に書いてあることについて質問したり(質問例が出版物に書いてありそれ以外の質問が行われることはない)、信者がステージで聖書中のシーンや伝道活動のシミュレーションを劇として行うなどしていました。信者でない子どもたちも注解や劇に積極的に参加するように促されていました。集会場には入口の近くに寄付箱があり、参加者は任意で寄付をすることになっていました。私が覚えているのは、集会に行くたびに1000円程度を母から渡されてよく寄付箱に入れていたことです。母はその頃自由に使える月の小遣いは数千円だったと後に言っていました。
また、それ以外に、奉仕と呼ばれる野外での無償の伝道活動がありました。月に一定時間以上参加すると、「正規開拓者」とか「開拓者」といった称号が与えられました。母は週に3度ほど、昼間、一度に1時間から2時間くらい参加していたと思います。決まった時間に10人程度のグループで集まり(●●か●●というところで集まることが多かったです)、その日に担当する区域の地図を渡されて、さらに2人から3人ずつに分かれて、一軒一軒インターホンを押して、家の人が出ると決められた言葉をしゃべり、小さなパンフレットを手渡す、というものでした。私も4歳頃には、何が何だか分からないまま参加させられていました。パンフレットを手渡すのは私の役目でした。伝道活動をするときの身なりは決められていて、男性は子供も含めてワイシャツに黒いズボン、ネクタイ(子供は蝶ネクタイ)を締めて、革靴をはかなくてはなりませんでした。革靴は固く、他の子供からお下がりでもらったりしていたのでサイズがいつも合わなくて、よく親指や小指から血が出ていました。
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