人を動かす天才、吉田松陰及び松陰神社について
この記事は約4分51秒で読めます
吉田松陰と松下村塾
時代を読み解く先見性と類まれな行動力で、明治維新の先駆者となった吉田松陰(よしだしょういん)。彼が開いていた学校、「松下村塾」(しょうかそんじゅく)は奇跡の学校と呼ばれています。
今回、松下村塾はどうして奇跡の学校と呼ばれているのか、また、松陰は松下村塾でどのようなことを生徒たちに教えていたのかを分かりやすく紹介していた本がありましたので、備忘録を兼ねてこちらでその内容をご紹介させていただきます。
松陰は、江戸時代後期、幕末の人です。長州(今の山口県)の「萩」(はぎ)で、松下村塾を開き、79人の若者に様々なことを教えました。その門下生には、高杉晋作(たかすぎしんさく)、久坂玄瑞(くさかげんずい)、よくテレビの新撰組に登場する桂小五郎(かつらこごろう)…後の木戸孝允(きどたかよし)、伊藤博文(いとうひろぶみ)、山縣有朋(やまがたありとも)という人たちがいました。
この松下村塾が実質的に松陰の手によって開かれていたのは、安政3年(1856年)9月から安政5年(1858年)12月に至るわずか2年4か月の間です。
そして、これほど短い期間しか学校を開けなかったのにも関わらず、その時代に門下生の中で、5,6人がヨーロッパに留学しているのです。言葉も分からないあの時代に、ヨーロッパってどこにあるの?という時代に、日本を良くするためにヨーロッパに学ぼうと、留学しているのです。さらに、その門下生の中から、明治維新後の総理大臣が二人出ています。初代総理大臣の伊藤博文と、三代目の総理大臣、山縣有朋です。そして10数名の大臣も出ています。松下村塾からは、明治維新を遂行し、明治政府を担い、今日の日本の基礎をつくった多くの人材が出ているのです。
そしてすごいのは、「79名の若者」は、優秀な人たちを集めたわけではない、というところです。松下村塾に集まっていたのは、片田舎の若者たちでした。そこには農民の子、武士の子、商人の子…いろんな若者が集まっていました。
吉田松陰は子どもたちから「松陰先生」と呼ばれていたのですが、松陰先生が教えたことは、結局その79人の若者たちに、「お前は何のために生まれてきたのか」「お前の生まれてきた役割は何か」ということを教えた…というよりは、気づかせた、ということです。「お前の長所はこういうところだぞ。これから、それを活かして、どう世の中の役に立っていくんだろう?」と。
比田井和孝 比田井美恵著 『あなたの人生が変わる奇跡の授業』より
自分の長所、役割に気付いた人は、すごいパワーを発揮します。その後、松陰は安政の大獄で、満29歳2か月で刑死するのですが、松陰が処刑された後も、門下生たちは自分の力で日本のために活躍していきます。
松陰が教えていた当時、中にはこのようなことをいう門下生もいたそうです。「松陰先生、世の中に生まれてきた役割って言われても、私には分かりません」。そんな門下生に対して、松陰はこう言ったそうです。
「”至誠”を貫きなさい。”至誠”とは、普段やらなければいけないことを、真剣に本気で、誠意を持ってやることだ。朝起きたら、玄関の掃除、鳥のエサやり、布団干し…そういうことを真剣にやりなさい。絶対に手を抜かないで、とにかく真剣にやりなさい。そうしたら、いつか自分の役割が必ずわかる」
比田井和孝 比田井美恵著 『あなたの人生が変わる奇跡の授業』より
そのとき与えられた仕事を、本気できちっとやっていったら、「あ、自分が生まれてきた役割ってこういうことかなあ」と気が付くそうです。ですから普段が大事ということです。普段どれだけのことをやっているか、それが大事だと、松陰は教えたそうです。私も、普段の生活で至誠を貫いていきたいと思います。
コメント