川島真彩の幸せの部屋

「幸せは全て自分の心から生まれる」 ~元JW(エホバの証人)2世からのメッセージ

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ずっと死のうと思ってた – ものみの塔(エホバの証人)の2世信者として長く苦しんできたこと(第2回)

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また、家庭では組織の出版物を用いた、母による宗教教育(子ども個人を指導する「家庭聖書研究」と家族全体で行う「家族研究」がありました)がほぼ毎日行われていましたが、ある時、部屋で天井に浮かんでいた数個の風船(恐らく父と出かけた時にもらってきたもの)に目を付けられ、「研究に集中する邪魔になるから」という理由で、針で1個1個割られていき、全てゴミ箱に捨てられました。宗教教育中に風船で遊んだわけでもないにも関わらず、宗教教育の事前準備として「邪魔なもの」が排除されていたのです。風船が割られていく度に、自分の胸が文字通り痛みを感じたのを覚えています。

父が買ってくれた本も処分されたことがありました。
父がいない時に、母が私の手からその本を奪い取り、教科の演習問題のページだけを残してそれ以外のページ(環境問題やいじめの問題を扱ったページを含む。暴力的・卑猥な内容のページは一切ありません)が破り取られ、読めないようにビリビリに破られて捨てられたのです。
ものみの塔を盲信しているがゆえにこのような突然予測の付かない行動を取る母や、似たようなことを行なっていた周りの信者たちのことを、ますます信用できなくなっていきました。
家の中には教団関係以外の物ももちろんありましたが、カルタは母手作りの、教団の教えを説いた内容の物で、そのようにして遊びを通じても教団の教えを刷り込まれていました。

そして子どもたちが「悪魔に影響されていないか」調べるために、子どもがいない時に勝手に机の中をあさり、隅々まで持ち物やノートの内容の点検が行われていました。2階の部屋で一人で過ごしている時にも、すごいスピードで1階から駆け上がってきて突然部屋のドアを開け、私がきちんと「個人研究」(組織の書籍や冊子の内容をさらに詳しく理解するために勉強すること) をしているかチェックされたりしていたので、大変不快な思いをしていました。プライバシーなど全くありませんでした。

テレビは、父のいる休日以外はほとんど観せてもらえませんでした。観る番組にも制限があり、基本的に歌番組は禁止で(「この世」の思想に影響されているから)、ドラマも禁止、アンパンマンさえも「戦いがあるから」という理由で禁止でした。(どの番組を禁止するかは各信者の家庭で異なっており、「竜が出てくるから」という理由で「日本昔ばなし」も禁止していた家庭やテレビそのものを処分した家庭もあります)
一方、父がいる時には何も言わずに自由に子どもにテレビを観せているように振る舞っていました。組織や信者の親たちは「裏表のある生活をしないように」と指示していたのに、母や周りの信者たちはそのような裏表のある行動を取っていたので、その矛盾した言動に疑問を感じていました。

こうして信者・非信者問わず、人に対して不信感を持つようになっていき、その状態は組織を離れてからも長い間続いていきました。

小学生の頃から自殺願望が始まり、心を回復させるために努力していく

ものみの塔の迫害とハルマゲドンの教義ゆえ、不眠に悩まされていた幼児の頃から、眠る時に「今夜こそはぐっすりと眠って二度と目が覚めなければいいのに。二度と朝が来なければいいのに」と願っていました。小学生の頃には「生まれてこなければ良かった」と思うようになりました。

学校で高熱が出て保健室から母に連絡が行き、母が迎えに来てくれたこともありましたが、家に着くと母は高熱の私を一人残して「再訪問があるから」と出かけていきました(再訪問とは、ものみの塔の教義に興味を持った家の人を再び訪問する布教活動のことです)。家に母がいないほうが私は安心できたのでその状況でも良かったのですが、心の片隅で寂しさを覚え、「やはり私は要らない存在なんだな」と感じていました。

あらゆる規制と恐怖、絶望感のもと、小学校高学年の頃には「せめて死ぬ時位は自分の決めた場所と方法で死にたい」と、夜中に家を抜け出して、死ぬのに最適な場所を探しに行ったり、手首に包丁を当てたり、中学生になる頃には自殺をする方法を調べたりしていました。ただ、ものみの塔は自殺を禁じていましたので「通り魔が私を殺してくれるか、事故死するのが一番良いのかもしれない」とも思っていました。

2013年に病気で緊急入院した時には、もし安楽死させてもらえるのなら、その方法を取っていたかもしれないくらいの激しい苦痛に襲われましたが、それでも「限界を超えたら死ぬことができるし、何よりもこうして大勢の医師や看護師たちが私のために動いてくださっている。これだけでも、誰にも頼ることができなかった子ども時代に比べたらはるかにましだ」と感じるほど、心身の苦痛を味わい続けた子ども時代でした。

そのように常に生きる限界を感じつつも、よく学校で偉人伝やノンフィクションの本などを読んで歴史上の人物や逆境を乗り越えた人たちから勇気をもらっていたこと、良き先生方や学友たちに恵まれていたこと、そして10代になってからは、年の離れた幼い妹を虐待から少しでも守らなければいけない、と感じていたために心にブレーキがかかり、今でも生きています。

組織にいた頃からアルコールを飲み始め、ハルマゲドンへの恐怖やどこにもぶつけることができない怒り、苦しみ、悲しさを麻痺させようとしていました。また組織にいる間も、離れてからも、精神安定に効くと言われるサプリを飲んだり、自己啓発系の本や、逆境から立ち直った人の本を読んだりもしてみましたが、その一方で時々自分をコントロールすることができなくなり、暴言を吐いたり暴力をふるったりする日々が続くことになります。

勉強や仕事に対しての感覚

私は子どもの頃から学校の勉強は好きでしたが、ものみの塔の教理を学ぶことよりも学校の勉強が好きである自分を自分で否定していました。また、そのようなことを口に出して言うことなど許されない状況でした。

その原因の一つは、少しでも多くの時間を宗教活動に使わせ、心の焦点をエホバに当てさせようとする熱心なエホバの証人である母の元で育ったためです。これは模範的な信者としては正しい行動です。また、「聖書の教え(実際にはものみの塔の教理)を学ぶことが最高の教育である」、「エホバに奴隷として仕えなさい」と組織から刷り込まれていたためだったとも思います。
長きに渡り将来の夢も希望もなく、「生活ができるだけの仕事があればそれでいい」というスタンスでした。

組織が指示していた信者の生活の優先順位が、1.集会参加とそれに伴う予習 2.伝道 3.食べていくための仕事 4.個人研究 5.自分のための時間 とされていたことが一因だと思います。(参考

参考:「エホバの証人の教えの奥義」ちょー入門 – 昼寝するぶた
ものみの塔の教理や子育て方法、脱会を難しくさせているシステム、脱会後、特に2世は心が回復するまで非常に時間がかかるということが載っています。

次回に続きます。『ずっと死のうと思ってた – ものみの塔(エホバの証人)の2世信者として長く苦しんできたこと(第3回)

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このサイトについて

元エホバの証人(JW)2世です。2000年に脱会することができました。
現在は保育関係の仕事をしながら、病気も経験しつつも心穏やかな日々を送っています。
どんな過去があっても人は幸せになれる、ということを伝えていきたい、そして子どもたちの人権を踏みにじる行為を防ぐ力となりたいと思っています。
当サイトが、ものみの塔からの脱会と脱会後の助けになりましたら幸いです。

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