文化庁への報告書
(7) 父にも助けを求められず
父には母から暴力を受けていることや、本当は集会に行きたくないことは言えませんでした。過去に自分から「自分が行きたいんだ」と言ってしまったこともありましたし、何より、事実を知ったら父が暴力的になって母に対して何をするか分からない、という恐怖が一番大きかったです。私が5歳か6歳の頃だったと思いますが、集会に参加していて夕飯を作るのが遅くなった母に対して、父が怒り、物干し竿を振り回してからそれをダイニングのテーブルの真ん中に突き刺して穴を開けたことがありました。それ以来、私は父に対しても恐怖心がありました。父は私が自分の意思で集会に行っているのか時折疑って母と話しているようでしたが、次第に何も言わなくなりました。
小学校3年生頃から、集会や伝道活動に行く時間になると、急に呼吸が苦しくなって頭の中が真っ白になる症状が現れるようになりました。母はこの症状に気づいて心配してはくれましたが、それでも集会や伝道活動へは連れて行きました。私は「なぜここまで苦しんでいるのに無理やり集会に行かせようとするのだろう。お母さんは本当に自分のことを愛しているのだろうか」と思っていました。
(8) 宗教活動以外にやりたいものなどあってはいけないのか
私はサッカーが好きで、6歳頃から一人でボールを蹴ってよく遊んでいました。学校ではサッカーが好きな友達もいて、休み時間に一緒に遊ぶのがとても楽しかったです。部活に一緒に入ろうよと言ってくれる友達もいました。当然部活動は母から禁止と前から言われていましたが、部活に入れる小学校4年生になったときに、どうしてもサッカー部に入りたくて、父に相談したところ、母と交渉してくれました。てっきり母には反対されると思っていましたが、父が話してくれたおかげか、意外にも許してくれました。許してもらえたときは驚きましたし、本当にうれしかったです。
学校で部活の申込書(一枚紙で切り取り線の下半分が申込書になっていて、保護者の署名と捺印が必要でした)をもらい、自分で名前を書いて、母の署名と捺印をもらいました。本当に書いてくれるのか不安でしたが書いてくれました。そして、次の日の朝に先生に渡そうとしていました。
しかし、次の日の朝、父が出勤した後に、母が「今日申込書を本当に出すの?」と、私に聞いてきました。私が意味を分からずにいると、「これを出したらお母さんがどれだけ悲しむか分かる?」と目を腫らして睨みながら聞いてきました。私はしばらく悩みました。母をこんなに苦しめてしまうのか、自分には宗教活動以外にやりたいものなどあってはいけないのか、と思いました。申込書は学校には持っていき、帰るまでずっと悩んでいました。結局先生には手渡すことはできませんでした。家に帰って母に申し込まなかったことを伝えると、母は喜びました。「●●(私の名前)は私の子だ」と言いました。私は、「申し込んでいたらお母さんの子供じゃなくなってしまっていたんだな」と思いました。父には、気が変わった、と伝えました。父はそれ以上何も言いませんでした。(父と母との間では何らかのやり取りがあったのかもしれませんが私には分かりません) 今でもこの決断は後悔していて、無理矢理にでも申込書を出すべきだったとも思いますが、当時の私にとっては自分が生きる場所を確保するための、唯一の選択肢だったと思います。
(9) 騎馬戦に参加するという選択肢はエホバの証人の信者の子どもである私にはありませんでした
小学校5年生の秋に、運動会で男子生徒全員、騎馬戦をやることになっていました。騎馬戦がエホバの証人の中で禁じられていることは知っており、母からも、「エホバは戦いを憎まれているから、騎馬戦に参加してはだめよ」と言われていました。私は騎馬戦に参加したいというよりは、単純に、運動会が大好きで、他のクラスメイトと一緒に競技に参加したいと思いましたが、参加するという選択肢はエホバの証人の信者の子どもである私にはありませんでした。
宗教上の理由で参加できないとは先生に言えず、たまたま当時足の親指の巻き爪で皮膚科に通院していたせいにして、「怪我しているので参加できない」と先生に言いました。●●先生という女性の先生でした。運動会まで日にちがあったので、今決めなくてもいいんじゃない?と言われたり、他の競技には参加できるのか聞かれ、「騎馬戦以外は参加できます」と言ったこともあり、表情からも明らかに先生は察しているようでしたが、それ以上は追及されませんでした。友達にも聞かれる度に同じことを説明しました。説明が苦しいことは自分でも分かっていましたが、それ以外にしようがありませんでした。
最近のコメント